音楽枕草子

クラッシク音楽や読書から趣味などの身辺雑記も含め、感想として綴ったblogです。

不定期投稿:最近のお買い物から~中古LPレコード購入

中古レコード購入(捕獲)記録の投稿となります。

書店において期間限定の中古レコードセールが開催されており、見ているうちにやっぱり購入してしまいました。

もちろん私の財布事情で購入できる範囲内の価格のレコードばかりです。

 

〇R.シュトラウス:楽劇「サロメ」(全曲) 

 レーベル:EMI(イギリス盤)/番号:SLS5139

 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤンウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

輸入盤ですが2枚組で490円(税込み)!箱や解説書は発売年代なりの傷・汚れがありましたが、意外にも盤面はきれいな状態です。

有名な録音できいてみたいとは思っていたのですが、国内盤CDは廃盤、輸入盤CDしか入手の方法がありませんがこの価格ならと思い購入。

 

〇ウィーンの休日  レーベル:キング・レコード/番号:GT9036

 指揮:ハンス・クナッパーツブッシュウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

J.シュトラウス父子などの小品集のレコード。マニアの間では評論家・宇野功芳さんの「いのちを賭けた遊び」のキャッチフレーズと共にクナッパーツブッシュ・ファンの普及に貢献!?したレコード。

CDでも何回も発売されていますが、「トリッチ・トラッチ・ポルカ」しかきいたことはないので―中学生の頃NHK-FMで初めてきいたとき、その「人を食ったような」演奏に驚き、この指揮者の音楽センスは大丈夫だろうか?と思ったことが懐かしいです。レコードの音できくとどのような印象か興味があります。税込390円。

 

ブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」 

 レーベル:OVEREAS RECORD/番号:ULS-3386-V

 指揮:ルドルフ・ケンぺ/ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団

ケンぺのブルックナーは昔から玄人のあいだでは名演・秀演といわれていましたが、なかなか手に入らず(今では輸入盤CDできけますが)きいてみたかった演奏です。

こちらも安価だったのでお試し用で購入。できれば第5番も入手したいのですが。

あと、ロイヤル・フィルを指揮したR.シュトラウスの「アルプス交響曲」を廉価で購入できればと探しています。

このレコード解説も前のレコードと同様に宇野功芳さんが書いています(ケンぺのブルックナークナッパーツブッシュなどと比べると一段落ちる云々、という書き出しで・・・)昔は結構人気者!?で売文して稼いでいたのですね。税込490円。

今年はブルックナー・イヤー(生誕200年)ですので、改めて視聴記の投稿も考えています。できれば実演もききに行きたい。昨年キャンセルになったブロムシュテットさんとNHK交響楽団定期公演のブルックナー。今年あるかな?

以上、最近はすっかりハマっている、安価な中古レコード捕獲記録情報の投稿でした。

恩師の逝去~今週は聖金曜日~復活祭~ポリーニ死去

キリスト教徒にとって今週末は聖金曜日~復活祭の重要な記念日になります。

日本では年度末、春の訪れを実感する季節であると共に別れと出会いのある時期です。

先週、中学校の恩師のご逝去がありました―2年生からの担任で音楽の先生であり、私をクラシック音楽の世界に導いて下さり、政治をはじめ社会をどのように見るかなどを教えていただいた人生において大きな影響を与えてくれた方であります。

恩師が亡くなるという事は自分も年を重ね、いつかくるその時に近づいている事を思いました。

その晩にはマウリッツィオ・ポリーニ死去のニュースにも驚きました。

翌日にあった恩師の葬儀の弔問への行き帰り、帰宅してからきいた音楽は恩師からモーツァルトヴェルディベルリオーズ以外のレクイエムとして教えていただいたブラームスドイツ・レクイエムです。

この作品は以前から自分の親しい方が亡くなった時にきくことが多く、恩師、ポリーニを偲びながらききました。

ラテン語による典礼に沿わず、ドイツ語の歌詞によるもので典礼文でなく「マタイ伝」などの聖書の言葉に基づく全7つの部分から成り、神の力から審判の恐怖、慰めや悲しみ、儚さ、無常さが歌われていきます。

全体から感じるのは「生の世界」と「死の世界」がはっきりと分けられていて、生きる者が彼岸にいる死者へ呼びかけているようです。それはモーツァルトヴェルディのようなあの世に引き込まれるような音楽ではなく、とても肯定的な音楽にきこえます。

歌詞には「しあわせである」(幸いである)などの前向きな言葉が並んでいるのもこの作品の方向性がよく表現されていると思います。それを一番感じるのが第7曲の最後「しあわせである」をリフレインして平穏のうちにききての心を穏やかに包み込みながら静かに終止していくところです。死者への弔いだけでなく、今を生きている自分も含めた人間への「慈愛」・「自愛」を作品に込めているようにも感じます。

ブラームスの作品といえばもっぱら交響曲を中心とした管弦楽曲が演奏されますが、このドイツ・レクイエムも傑作ではありますが、演奏時間約75分の内、第3曲のバリトン、第5曲のソプラノと各1曲のためだけに2人の歌手を用意しなければならないという費用対効果の面からもあってでしょうか?実演にめぐり逢えるのは稀です。ディスクはそれなりに揃ってはいますが。

この作品が同時代から後世へ影響も与えていると思われる部分もあります。第3曲や第6曲ではブルックナーの宗教音楽と同種の響きを感じます。作品中いちばん音楽が圧倒的になる第6曲はヴェルディへ、第5曲のソプラノ・ソロはオペラ的な要素、R.シュトラウスサウンドが遠くで鳴っているような気がします。そしてもちろん作品全体からはベートーヴェンのミサ・ソレムニスのような古典的な格調の高い響き、第1曲からグレゴリオ聖歌やシュッツなど古いドイツ音楽の響きがベースになっていると思います。

今まできいてきたディスクですが、やはり恩師に作品を教えてもらい最初に購入したカラヤン指揮ベルリン・フィル盤に愛着があります。

ソプラノはグンドゥラ・ヤノヴィッツバリトンがエーベハルト・ヴェヒター、合唱はもちろんカラヤンの宗教作品と言えばのウィーン楽友協会合唱団。録音は1964年、面白いことに録音場所がウィーン・フィルの総本山、ムジークフェラインザール。響きの豊かさと慈しみに包まれる演奏です。

後年にも再録音を残しているそうですが未聴です。

そしてもう一枚カラヤン盤を―こちらは1947年の古いモノラル盤。オーケストラはウィーン・フィル

ソプラノはエリーザベト。シュワルツコップバリトンハンス・ホッター、合唱はやっぱりウィーン楽友協会合唱団。

カラヤンの戦犯容疑が解けるか解けないかの頃の録音でしょうか。年代の関係もあり弱音部の歪などもきかれますが、伝統的なドイツ系オーケストラの特徴ともいえる低音部の重厚さを保ちながらも音楽の流れが自然です。フルトヴェングラーワルタートスカニーニが存命中の時代とは思えない、新しいスタイルの演奏です。

最後はずっと後になってきく様になった異色盤をご紹介しておきます―セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団&合唱団、ミュンヘン・バッハ合唱団員。

ソプラノはアーリーン・オジェーバリトンはフランツ・ゲリーセン(録音:1981年ライヴ)

彼の演奏の代名詞「遅いテンポ」―声楽作品でもあるせいか、そこまで極端ではありませんが仰け反りそうなテンポで、一枚一枚皮を剥すかのように作品の構造やフレーズを晒していく演奏です。そのため第3曲や第4曲におけるフーガ的展開はききものになります。

今週は恩師の逝去、ポリーニ死去、聖金曜日~復活祭と生と死について考える機会となったことを投稿させていただきました。ポリーニ追悼については改めて投稿したいと思います。

小澤征爾さん追悼②~おすすめディスク紹介

そろそろ小澤征爾さんが亡くなり四十九日命日になるでしょうか―

改めて彼の功績は、東洋人に西洋音楽など理解できないといわれていた時代、海外で活躍の場を確立したことです。あのウィーン国立歌劇場の監督に日本人指揮者が就任すると考えたでしょうか―ベームカラヤンが就いていたあの地位に―それには小澤征爾が持っていた非西洋人というコンプレックスをその才能により跳ね返した事にあります。その後、日本人演奏家が海外で活動する先鞭ともなりました。それについては彼の演奏内容・質とは別に長く評価されることであると思います。

しかしそれだけの評価を得て一般聴衆の受けは非常によかったのですが、なぜか日本国内の評論家受けはあまりよろしくなかった印象があります。

例えば休刊となった音楽之友社レコード芸術における特集「世界の名指揮者ベスト・ランキング(2009年12月)」―この雑誌の大好きな「ベスト〇〇」物の特集ですが―評論家50人が選んだランキング(物故者も含めた)で52位(同率あり)で選外、読者ランキングでは23位です。その両方を合わせた総合ランキングで34位。

同じく現役の指揮者から選んだ「現代の名指揮者ランキング」では評論家選出では選外。読者選出では4位!の総合ランキングは14位です。(70年代の特集では上位にいるのですが・・・)

このランキングを見ていて面白いのは評論家投票が多いのに読者投票は少ない、またその逆の指揮者もいて面白いです。前者の代表がニコラウス・アーノンクール(現在の名指揮者2位)やエサ=ペッカ・サロネン(同第13位)、後者は大野和士(同14位)そして同じく14位に小澤征爾がいます。ちなみに得票は評論家票1、読者票27です(その唯一の評論家評は故・諸石幸生さんです)

また、関係の深さ、お付き合いの長さからいって、その影響力も絶大だったはずの評論家・吉田秀和さんが残された文章でも彼について書かれたものは少ないような。名前が登場することはありますが・・・。

その扱い?を踏襲してか、吉田秀和さんの死後に増補再出版された「世界の指揮者」にも入ってはいません(クラウディオ・アバドの章で次世代の指揮者のひとりとしてカラヤンが名前をあげている云々、という関連のみ)

それでも彼が大衆の人気があったのは、ちょうど彼がアメリカやヨーロッパで活動をしていた時期が日本の自動車や電機産業の工業製品が海外輸出され、認められていった時期とも重なっています。共に「メイドインジャパン」品質の工業製品と同じ使命や期待を背負わされたのでは?と思いました。

その為に高尚な向きを目指す評論家の皆様には癪に障ったのでしょう。あと「〇響事件」も影響して表立って褒めることもできなかったのでは?とも考えてしまいます(空気を読んだ忖度・慮りなどが働いていたのでしょうか?)

彼の演奏は一聴すると熱気と活力があり、その場・その時はワクワクしてききますが、ではその後に何が残るかというと・・・アナリーゼが不足、細部まで目は届くのですが、逆に部分部分のみで魅せる結果、作曲家はどのように考えて(その歴史的背景まで捉えて)書かれたのかという構成力や説得力がありません。しかし、クラッシック音楽はそういったものでは無い!。と同時期に指揮活動している(していた)のはサイモン・ラトルそしてニコラウス・アーノンクールフランス・ブリュッヘンであると思います。

セイジ・オザワ・フェスティバル(旧サイトウ・キネン・フェスティバル)開催の地元在住なので、実演をきくこともできましたが、いつでもきける(わざわざきくほどでも無い)そして2000年代になると「振る振る」と云ってはチケット完売後に病気を理由にキャンセルばかりになったのでスルーしていました。しかし、小澤征爾の演奏を全くきかないわけではありません。

そんな数少ない聴取経験からおすすめディスクを2枚ご紹介しておきます。

バルトーク管弦楽のための協奏曲(ボストン交響楽団

この作品自体、腕こきの楽団と録音が良ければ基本的に成立してしまうのでバツグンに楽しくきける演奏です。弾むリズムと鮮明な音響!ただ最晩年のバルトークの苦痛や苦悩、作品に込められたアイロニーはきこえてきません。

ストラヴィンスキー:オペラ=オラトリオ「エディプス王」

これは第1回サイトウ・キネン・フィスティバルの出し物の目玉として上演された演目のセッション録音です。

直球勝負のオペラ演目での勝負を避け(資金的な問題もあったのでしょうが)変化球できた作品。当時は第1回のオペラの目玉がこんなマイナー作品??・・・と思っていましたが。

このディスクで気になるのが録音会場。開催に合わせてその年の7月に落成なったメイン会場の長野県松本文化会館(現キッセイ文化ホール)ではなく、そこから車で約1時間の岡谷市にある岡谷カノラホールを使用している事です。音響的な面からか?交通手段・費用面からでしょうか?

確かに岡谷カノラホールの方が音響・客席を含めた設計からすると人口5万人くらいの地方都市にはもったいない(失礼!?)施設です。私はここでリヒテルやツィンメルマンのリサイタル、パリ管弦楽団(指揮:ビシュコフ)、イスラエル管弦楽団(指揮:メータ)やイ・ムジチ合奏団(もちろん「四季」)をきいた思い出があり(それに小室哲也のモーツァルトを題材にした「アマデウス」なるミュージカルまで観劇した記憶も)

ホール全体に音響が豊かでまろやかに広がるのが素人の耳にも判ります。その頃は若年割引を利用して良い方の席できけたせいもあるかもしれませんが・・・それに比べ松本のホールはやや平面気味。。。

演奏のほうは、タイトルロールは上演時と異なるペーター・シュライヤーが務めています。もっぱらドイツ音楽の専門家のイメージでストラヴィンスキーとは珍しい!ここでも真面目な歌唱をきかせてくれます。そしてジェシー・ノーマン。重力級の歌声と存在感で圧倒。この平面的で動きの無い、しかし音楽は複雑な作品をきれいに整えてしまう小澤征爾の指揮。

購入したキッカケはモノラル録音のフリッチャイ盤のきき比べ用として中古で安価だったという理由だけでしたが思わぬ拾い物です。

今回は2月に亡くなった小澤征爾さんの追悼第2回目の投稿でした。

下は松本市の毎月配られる広報からー

レコード芸術2023年総集編(ONTOMO MOOK)読了記録

昨年、2023年7月号をもって「休刊」した「レコード芸術」、公には「休刊」としていますが、紙媒体としては事実上の「廃刊」でしょう。その落穂ひろい?的にムック本として総集編が2月末(2024年3月1日)に発行されました。

レコード芸術休刊〜最終号購入 - 音楽枕草子

店頭で内容を確認してから購入するか決めようと思っていましたが、Amazonのポイント付与に釣られて購入ボタンを押してしまいました。

表紙デザインからして伝統継承といえるもので、中身も同様かな?と不安と共に先日読み終わりました。まず、きっと編集部がやりたかったのはこれではなかったのか?と思った表紙にも記載されている「ONTOMO MOOK レコードアカデミー賞」の記事です。

レコード芸術、日本のクラシック音楽界においても、特にその昔は影響力を持った「レコードアカデミー賞

1年間に発売された特選盤(ふたりの評論家が月評で推薦としたレコード、ディスク)から交響曲をはじめとした各ジャンルのノミネート盤の中から喧々諤々、評論家が話し合って年間ベストを選出するというシステムで、長くその音盤の販売数・評価にも影響した「権威」!?ある賞でした。

いわば「音楽之友社レコード芸術」の存在意義の重要な役割となっていたのではないでしょうか?だからこそ、今回の総集編発行にあたりその灯を消すには忍びなく、せめてもということで、休刊される2023年7月号までの特選盤から選出したのではないでしょうか?ただし、大賞とかを決めるのでなく、各担当ジャンルの執筆者が第1位から第3位までを選定という形を採っていますが。

もうそれ以外の記事は編集部も力を入れなかったのか、レギュラー執筆陣によるエッセイのような寄稿の羅列になっています。その中でもさすが片山杜秀さんの「クラッシック音楽の構造転換」は読み物として楽しめます。また、矢澤孝樹さんの巻頭言と「休刊後に思ったいくつかのこと」は特に後者に共感するところもあり、レコード芸術と音楽界に対する問題提起と提言に考えさせられました。矢澤さんは現在、音楽評論を生業にしていないそうですが、以前は水戸芸術館に勤務し、当時の館長であった吉田秀和さんの薫陶を受けた方でもあります。

そしてその吉田秀和さん。レコード芸術に長く寄稿され、彼が推薦するレコード・演奏家は良く売れたともいわれて、私はその文章を読むためだけに購読していた時期もあります。購読を止めたキッカケも吉田秀和さんが亡くなった時です。そういった読者はけっこう居たハズですが扱いが余りにも少ない、皆無です。その代り登場しているのが宇野功芳!氏です。

最終章(第4章)全てを『レコ芸』アーカイヴとして彼の月評から抜粋されたものが掲載されています。やはりレコード芸術を支えていたのは宇野功芳氏を信者のように崇めていた方々だったのでしょうか?

今後もあくまでこういったスタイル(書籍化)にて発行を継続しようとしているのでしょうか?音楽をディスク(レコード・CD)できかない時代に「レコード芸術」の活路を見出していくには非常に困難が伴います。しかし、それによって本当の「評論」「評論家」はどうなるのでしょうか?

それも音楽受容の新しい形だよ。と言われればそれまでですが・・・。

PS.別冊付録に「レコード・イヤーブック2023年1~7月号&補遺」があります。昔はこれを見て1年間に発売されたディスクの買いそびれた物や亡くなった演奏家など振り返り情報を得ていましたが、久し振りに目を通し最初に感じたのが「字が小さくて読めない。。。」です。ちなみに自宅に唯一残っている2012年版と比べてみましたが、体裁・文字サイズに大きな変化はありませんでした。

自身の体の劣化を改めて感じると共に、「レコード芸術」が重ねてきた歴史も、時代の変化の彼方に消えていくかと思うと寂しさもあります。

Selct Classic(14)~シューマン:リーダークライス

「春」といえば気分が晴々して心躍る季節ですが、私の住む地域では朝晩に気温がぐっと下がり、先日は積雪を伴う降雪もあり、まだ冬の面影を残しているなぁ~と感じます。そういったときは「死」や「怯え」などを時として感じるシューベルトやヴォルフのリートではなくて、シューマンのリートをききたい気分になります。

今週はそのドイツ・ロマン派を代表する作曲家のひとりロベルト・シューマン(1810~1856)のリーダークライス作品39です。

同名の作品24という全9曲からなる作品などと共に1840年、彼の生涯では「歌の年」といわれる時期にまとめて作曲されました。その後手は加えられたそうですが。

「リーダークライス」とは「歌の環」というニュアンスの意味で各詩が連携して一貫したストーリーを持つ連作歌曲(シューマンなら「女の愛と生涯」や「詩人の恋」、シューベルトなら「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」)ではない歌曲集に、暗示的な意味で関連をつけるために名付けた作曲者による造語であるといわれています。

歌詞はドイツ・ロマン派の詩人アイヒェンドルフ(1788~1857)の詩による全12曲からなっており、それぞれが特徴のある曲ばかりですので詩を含めて全てを挙げていったらキリが無いのでセレクトしていくと―

第1曲「異国にて」 ハープをイメージしたピアノの伴奏にのって静かに『遥かなるふるさとを想えば~』歌いだされると、遠い場所に連れて行かれ物語が始まる―といったように引き込まれていきます。

第3曲「森の語らい」 舟歌風の横に流れるメロディーが、詩に出てくる騎士を呑み込むローレライを表していると思います。そして曲はここにきて非現実的になって深い森へと入っていきます。

第5曲「月の光」 ドビュッシーを連想するようなピアノのメロディーが、夢か幻を見ているようにして月夜が描かれるところに注目です。

第6曲「美しい国」 前曲の余韻を引きずりながら、それがより現実的で幸福感があります。ピアノ伴奏だけでも小品なような書かれ方です。

第7曲「古城から」 名前の通り「荒城の月」か?と思うほど「西欧のロマン」か「日本の無常」の違いだけで雰囲気が似ている詩です。

第9曲「憂愁」 12小節~13小節の『私は嘆く~』での節回しは心に響きます。

第10曲「たそがれ」 ピアノが下降上昇を繰り返す音型が5回出てくるのですが、これが前衛的で印象に残ります。

第12曲「春の夜」 森や鳥、風など自然の音がきこえてきて、小刻みに鳴るピアノの伴奏からは胸の高鳴りを示しているようで幸福感いっぱいになります。将来の結婚するクララのことを想いながら書いていたのでしょうか?

深い森へ分け入っていくというテーマ(詩)=きき手の心の奥底(闇)を覗き込むような心境になる音楽で、外面的な「旅・冒険」に出かけるというよりは内向的に「心の旅」をするといった感想を持ちます。そしてうまく「夜―闇」と「春―明」を対比し並列されている音楽だと思います。と、書いていますが、初めてきいた時はそういったことを全く感じなくて少しですが、最近になって興味深くきけるようになりました。これからきく方も繰り返し接することをオススメします。

シューマンの歌曲をきく時の手引書-訳詩も古風でかなり年季が入ってます。

古本市の売れ残りをタダで頂いたものです。

《Disc》
ここはやっぱり大御所バリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがクリストフ・エッシェンバッハのピアノに伴われて録音している1975年の演奏で。彼の喜怒哀楽の表現がうますぎてハナにツク時もありますが納得させられてしまいます。そしてエッシェンバッハの弾くフレーズのひとつひとつが「リーダー暗いス」してます(失笑・・・つまらなくてスミマセン。。。)

そして録音媒体ではないのですが、日本人のテノール歌手で注目している方がいます。

ヴォーカリストの高島健一郎さんです。

いまやクラッシク音楽においても(この分野自体が衰退市場ですが。。。)絶滅危惧種となりつつあるリートの分野。そこに留まらずオペレッタなど幅広い活動をされ、素晴らしい歌唱をされている高島さん。

若い方が積極的に高いレベルで活動されている事は頼もしいです!!

ここにYouTubeのリンクを貼っておきます。

(1) Liederkreis op. 39 - Robert Schmann リーダークライス op. 39【日本語訳付き】 - YouTube

このように日本語対訳の連動した動画を作り込み、丁寧な歌唱をきくとドイツ・リートの魅力を感じてくれるリスナーもいらっしゃると思います。

是非機会があればリサイタルをきいてみたいと思っています。

完聴記~アーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウBOX⑥

今週はアーノンクールロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による未発表放送録音集の完聴記シリーズVol.6(CD11)の投稿となります。

曲目・演奏家・録音データは以下の通りです。          

CD11

 ・シューマン:「マンフレッド」序曲 Op.115

 ・シューマン交響曲第1番 変ロ長調 Op.38「春」

  録音:2004年5月2日 アムステルダム・コンセルトヘボウ

 ・シューマン交響曲第3番 変ホ長調 Op.97「ライン」

  録音:2004年11月28日 アムステルダム・コンセルトヘボウ

 

オール・シューマンのディスク。交響曲はヨーロッパ室内管弦楽団と90年代半ばに全集のライヴ録音を残しています。

「マンフレッド」序曲は唯一の録音です。対向配置による弦楽器の掛け合いが活きており、中間部でカッコいいメロディーが出てきますが、くっきりと示してくれます。

この作品のように直接的に標題音楽ではないものの、暗示するようなタイトルが付いた音楽をきき手に理解させる表現力はさすがに上手いです。

次は同日の演奏会から交響曲第1番「春」。音のぶつかり合いや音のズレをそのスコアのまま音にしているようにきこえる演奏です。例えば第1楽章の第1楽章提示部のニュアンスは独特です。

巷間、シューマンオーケストレーションは下手という評価が定着しており、一般的な指揮者は全体の響きを重視し、バランスを整え小さく鳴らす、又は控えめに弾かせる(吹かせる)など、いかにその不具合を感じさせないように隠し、整理して演奏することがテクニックとされますが、アーノンクールさんはテンポの伸び縮みもフレージング自在に操ります。そしてパワーとたくましさがきこえてきます。

第2楽章も複雑に主要テーマが派生して楽章を構成していくことを教えてくれます。

第3楽章、アクセントと効かせるメリハリのある表現、テンポ変化の幅の大きさ、強弱の付け方にも個性を感じる演奏です。

第4楽章はやはり対向配置による演奏は重要な要素と感じます。第1主題の提示から弦楽器の掛け合いと、各テーマやモチーフが顔を出すのもきき取ることができます。

コーダの熱気はライヴという状況もあるのでしょう、気迫が感じられます。

交響曲第3番「ライン」

第1楽章のたくましさ―シューマンの「エロイカ」的シンフォニーと言われることもありますが、ここではそれにプラスαで陰影もきこえます。重奏される弦楽器と管楽器、それによる濁りというか影、曇り模様の空のような空気も感じることがあります。また、フト出てくる管楽器のソロには侘しさがあります。

6分くらいでホルンの吹奏と共にオーケストラのユニゾンで弾かれるところは「エロイカ」を意識させます。演奏もそれを意図していると思います。コーダでも同様なことを感じます。

第2楽章は民族舞曲風で、ライン河の畔で行われている集落の祭りの風景描写、のどかさを感じる音楽というイメージを持っていましたが、アーノンクールさんはもっと深掘りしていて、例えば後半部にある寂しさ―これは祭りのあとの静けさみたいなものまで感じさせます。はて?この描写はシューマンの夢想の中での出来事ではないだろうか。と思います。

第3楽章、このシンフォニーで一番中抜きしてもいいのでは?と思うくらい印象に残らない楽章。それ故、「春」と共に標題があるものの、イマイチ個人的には名作・傑作とは言えない作品です。構成力なら第4番となるでしょうし、シューマンらしさなら第2番となります。インテルメッツォとしてきけばいいのでしょうが・・・今回もその印象に大きな変化はありませんでした。

第4楽章ここで初めて出番となるトロンボーンが吹奏され、多声的なモチーフが重なり合い、まさに「壮麗」な響きがきこえてきます。金管のファンファーレや弦楽器は葬送音楽のような―ルネサンスや初期バロックの古い時代の音楽へのリスペクトにも思えます。

第5楽章やっぱり音の重複、突出、偏執的な反復、和音がダイレクトに耳に入ってきます。この音楽は祝典的といった言葉で解説されますが、私にはそのようにきこえてきません。第2楽章と同様にシューマンの頭の中で起きている幻影の祝典をきかされているような現実味の無い音楽にきこえます。これは楽章自体が大きな展開を構築していくことも無く、約6分ほどで終わってしまうので「夢幻の如くなり」の言葉が浮かんできます。

ブルックナーほどとはいいませんが、もう少しこねくり回した展開力が欲しいと思います―まあ、これがシューマンのオーケストラ楽曲の手法の限界でもあるのでしょう。しかし、これもまたシューマンの持ち味としておきましょう。

今回アーノンクールさんの演奏をきいてもこの交響曲への好みに変化はありませんでした。

あと、この完聴記も残すところ4枚となりました。今後もお付き合いいただければ幸いです。

演奏会~インバル/都響 マーラー交響曲第10番(クック版)

エリアフ・インバル氏と東京都交響楽団によるマーラー演奏。現在このコンビで感銘の深い音楽がきけないことはないでしょう。当然期待に違わないコンサート体験をさせていただきました!



【プログラム】

都響スペシャ

マーラー 交響曲第10番嬰へ長調(デリック・クック補筆版)

指揮:エリアフ・インバル 東京都交響楽団

2024年2月23日(金曜日) 開演 14:00 東京芸術劇場

 

2014年3月に第9番をきき、同年の7月に今回と同じ第10番「クック版」をきき、2017年7月には交響詩「葬礼」(交響曲第2番第1楽章のプロトタイプ)と「大地の歌」をききました。どれもが忘れられない経験となり、幸運にも人生において再び第10番をきけるとは思いもしませんでした。

出発時は長野県松本市も前日からの降雪で、無事に高速バスが運行するか心配していましたが、定時よりも若干早く新宿バスタに到着しました(演奏会チケットは発売日からあまり経過せずに購入していましたが、バスのチケットを取るのが直前となり、3連休初日であったため予定していた時間より遅い便のプレミアシートとかいう高い席ひとつしか空きがなかったので渋々の購入となり、心配と失敗が重なりましたが、それも演奏をきいて全てご破算になりました!)

 

高齢とは思えない歩みで指揮台にインバル氏が登壇、会場に緊張と高揚の入り混じったライヴでしか味わえない空気感に快い感覚を覚えました。

第1楽章冒頭はヴィオラ群の合奏による非常に難しそうな提示部、そのヴィオラ特任首席奏者の店村眞積さんが退任されるとのこと。本日はそのラスト・ステージ。ヴィオラ奏者たちにも様々な思いが込められての演奏でしょう。こちらも呼吸することすらためらいながら緊張してききました。そういった聴衆の方は多かったようで、空気も張りつめたものでした。

*店村さんはもっぱらNHK交響楽団の奏者というイメージで、N響アワーなどのTVで昔からお見かけしており、オーケストラのヴィオラ奏者としてはお顔馴染みの方です。

さて、そのヴィオラの提示部ですが、やや冷たさがあり、ピンと張りつめたもので、古今のシンフォニーの中でも結構珍しい編成による開始ではないでしょうか?そこに虚無の彼方から他の楽器が加わってきます。その思わず息をのむ絶妙なアンサンブル、そこに表現力が伴っていて、嘆き、憧れ、ため息のような息遣いがそのままきき手の耳に沁みこんできました。

第2楽章から第3楽章は動きのある音楽が続き、まるであの世とこの世の中間で彷徨っているかのようですが、管楽器の苦渋に満ちた笑い声や皮相的な表現、グロテスクなまでの踊りが巨大の音の塊のようになって会場に鳴り響いていました。

終楽章は交響曲第9番で「死」を描き、この第10番では「死後」の世界からの言霊のようで、音楽が肯定的に感じます。大太鼓の衝撃的な打撃から審判の日を思わせるチューバの吹奏、フルートによって導き出される天上からの使者の歌、そこから第2楽章から第3楽章できいたグロテスクな踊りを思わせる音楽が回帰して死の迎えが来たように断末魔の叫びのような音楽ーここでの各奏者の妙技!そこから静かさが訪れが生と死の境目を表しているようなー

その先できこえてくる音楽からは、東洋的な表現をするなら、彼岸に行ったマーラーがアルマに向かい、静かに微笑みかけながら見守っているような印象を受けます。それは浮遊感―地に足が着いていないような感覚からききことができます。

コーダにおいて弦楽器の弓がゆっくりと動き、離されていくと共に音が会場全体に解き放たれていく余韻―これは第9番の終楽章や「大地の歌」の「告別」にも通じる音楽の充実感がありました。それは第一級の指揮者とオーケストラにより成せる響きであります。そして曲が終わった後の会場に包まれた静謐な空気―熱気はありながらも―そこに湧いてくるような拍手。こういった環境で音楽をきける幸せを感じました(熱狂的なブラボー・マンも居なかったのでヨカッタ)

*オーケスラメンバー、特に弦楽器奏者(ヴィオラ奏者)の皆さんはこの時を少しだけでも永くしたいような、名残惜しさもあるようなボウイング。この余韻も素晴らしかったです。

エストロに捧げられた拍手のみならず、オーケストラ奏者への拍手、そして退団される店村さんのセレモニーにもなった舞台を含め、会場が一体となった東京芸術劇場でした。こういった経験は地方都市のホールではとてもできないことだったので、良い経験となりました。

インバル氏はこの作品を結構速いテンポで―個人的な聴取感覚ではありますが、10年前にきいたときより第1楽章が終わったかと思うとあっという間に終楽章に到達した気がして、より速くなっているのでは?と思いました。その分、演奏の技術も含めた濃縮度は今回の方が高くなっています!!それにこちらも10年前の実演体験以降、その時のライヴ録音等を含め他の演奏を何回かきいたことで、聴取に対する意識の変化も当然あると思いますが―

それもあってか、明晰で細部まで、またフレーズのひとつひとつまで光が当てられるため、どうしても補筆作品故の足りなさ・欠陥が露わになってしまう瞬間を感じました―これはやり方は違ってもチェビリダッケがブルックナーを始めとした作品を晩年になるに従い顕微鏡で観察するかのように、一音一音、フレーズ毎を徹底して表現の限りを尽くそうとしたが為に、その名演として名高いブルックナーでは作品がブツブツと分裂してきこえ(裂け目が晒され)、他の作曲家の場合、きき流していた作品の弱さ・欠点・内容の無さを逆にはっきりときかせてしまったりとしたように、インバル氏を始めとした往年の指揮者達との演奏実績を残し、一流の技量を持った都響であっても第2楽章以降の完成度・感銘度で音楽の究極の到達点に物足りなさを残していることも知ることになりました。

1936年生れなので今年で88歳、日本風にお祝いをするなら「米寿」。指揮姿はもちろん、10年前にきいたときよりも第3楽章~第4楽章における複雑なリズムも難なく振っており元気なご様子です。そして先にも書いたようにテンポ感覚が衰えていない!これから第3次のマーラー・チクルスを年1回ペースで進めていく長い道のりが始動するそうです。

ベームカラヤン、それにバーンスタインなどは年齢を重ねるごとにテンポが遅く、重くなっていきましたが(それにより新しく生まれた演奏もありましたが)、それとは逆の方向に向かっているインバル氏、もうひとりの長老指揮者ブロムシュテット翁(怪我からの復帰をお祈りしております)と共に今後の活動を期待しております。

 

【アーカイヴ】演奏会~都響スペシャル インバル指揮 マーラー:交響曲第10番(クック版)

今回は既にXで告知した通り、2月23日(金)のエリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラー交響曲第10番(クック版)の公演(都響スペシャル~於:東京芸術劇場)の感想記を明日の夜に投稿する予定ですが、10年前に同コンビによる同曲の演奏会の感想記を別ブログに投稿していました。
Hatenaa Blogへ記事の引越しも兼ねてアーカイヴとして再投稿となりますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

都響スペシャル~エリアフ・インバル指揮によるマーラー交響曲第10番(クック版)の演奏会をきくため地方より上京してきました。

於:2014年7月20日(日曜日) 14:00~ サントリーホール

マーラー交響曲第10番は一昔前までの「マーラー指揮者」といわれたバーンスタインテンシュテット、そしてアバドマゼールといった人たちはマーラーの総譜が完成している第1楽章のアダージョのみを演奏するのが一般的であったのに対して、現代の指揮者たちはイギリスの音楽研究家デリック・クック(1919~1976)が補筆完成させた、いわゆる「クック版」といわれる全5楽章のものを演奏するのがメジャーになりつつあるというか、きき手もキワモノをきくみたいな感覚を持つことなく接するようになりました。

それにはこのヴァージョンの普及に貢献したと思われるサイモン・ラトルを筆頭にリッカルド・シャイーそしてインバルなどによる演奏・ディスクの影響が大きいと思います(他にも違う版で演奏している指揮者まで含めるとこのシンフォニーをめぐる現況は百花繚乱といったところで、きき手が望めば色々な楽しみ方をできます)

そのラトルやシャイーが一貫してクック版しか取り上げないのに対し、インバルは当初1980年代の後半にフランクフルト放送交響楽団マーラー交響曲全集を手掛けた時は第1楽章アダージョのみでしたが、クック版に価値を見出したそうで全集補完のようにして1992年にレコーディングをしました。

今回も基本的にそのヴァージョンで演奏しているようでした。しかし、「クック版」といってもこれまた一筋縄ではいかず、クック自身が亡くなるまで改訂を繰り返していて、それに加え彼の死後も周りの人たちも手を加えているのでクック版にも異稿が存在するそうです。そして取り上げる指揮者も自分オリジナルで異稿から取捨選択して演奏するので専門家でないと「どこがどう違う」ということまで判りません。

私のような素人でクック版を他人の手掛けた「マガイ物」という見方をしてきて、熱心にきいてこなかった人間には版についてどうこうという力は持っていないので、演奏会で鳴っていた音楽についてのみの感想です。

第1楽章、始めヴィオラのみで呈示される序奏テーマでの緊張感ある音、これにより一気に曲への集中力が高まります。続くヴァイオリンの第1主題の美しさ!激しく心を揺さぶられ音楽に引き込まれていきます。

後半できかれる不協和音―これは終楽章でも響くすごい音―丸ごと音がブロックになって胸にどっしりとしたものを投げ込まれたような重厚感―それと一転して静かで浄化されたメロディーの出現がまるで絶望とか破滅といったものを表現しているみたいで、この最強音と弱音のコントラストの手法が他のマーラー作品では思い浮かばないので、新しくてとても惹きつけられました。

そしてこの交響曲はその間に動きのある3つの楽章―第2楽章スケルツォ―第3楽章プルガ・トリオ―第4楽章スケルツォアレグロ・ペザンテがありますが、どれも熱気があり、マーラー流のアイロニーやドロドロした所を的確で立体的にきこえてきました。ホルンをはじめとする金管群、フルート、オーボエなどの木管群、ティンパニを筆頭に活躍する打楽器群も輝かしいものでした。第4楽章~第5楽章で注目される大太鼓奏者は女性でしたが、もの凄い打撃音を繰り返し鳴らしてくれて、何か筋トレしているのでしょうか?

彼の録音として存在するフランクフルト放送交響楽団とのディスクと都響の演奏と比較すると(セッション録音とナマとの大きな違いはありますが)弦楽器のちょっとネバっこいところや管楽器のフレーズなどでもきかれる―ユダヤの宗教的なものなのか、彼自身が本来持っていたものかわからないのですが―マーラーらしい歌いまわしがきこえてきてインバルの許で緻密な演奏技法(このあたりは重箱の隅をつつくと感じる方もいるかも知れません)をマスターしていると思いました―いうまでありませんが、都響にとってレパートリーを考える時、マーラーは最重要なものでしょうから―パンフレットによると第10番(クック版)は既に1976年にシベリウスの大家といわれた渡辺暁雄さん―1987年に若杉弘さん―1997年にはインバルと取り上げてきたそうですのでその自負もあると思います。それは、終演後の舞台上の楽団員の方たちに様々な意味で難曲といえるこのシンフォニーをやりとげた達成感と心地よい疲労感が漂うものが印象的でした。

本公演も他のマーラー・シリーズと同様に録音されるのでしょうか?発売されるのが楽しみなディスクとなります。このようなレベルでこの作品が演奏されるようになると、今後マーラーの第1番~第9番交響曲と同列できかれ、語られていくことでしょう。

演奏会~北村朋幹 ピアノ・リサイタル~オール・リスト・プログラム

ピアノ・リサイタルに出掛けるのは何年振りだろう―それも個人的には遠いところにいる作曲家リスト―「巡礼の年」は知られてはいるものの、第1年と第2年の全曲をきけるチャンスは―それもこんな地方都市で―よい経験となりました。

北村朋幹 ピアノ・リサイタル

オール・リスト・プログラム

「巡礼の年」 第1年「スイス」&第2年「イタリア」 全曲リサイタル

2024年2月17日(土曜日) 開演 15:00 松本市音楽文化ホール

北村朋幹 ピアノ・リサイタル - 音楽枕草子 (hatenablog.com)

北村朋幹 ピアノ・リサイタル 巡礼の年 - 音楽枕草子 (hatenablog.com)

先月開催されたプレ・トークにおいて北村さんが好きな曲集と仰っていた、第1年「スイス」は、リストと当時恋愛関係にあったマリー・ダグー伯爵夫人との逃避行ともいえるスイスへの旅路における心象風景、彼の標題音楽への志向と通じる印象を受けます。

そして、当時女性文学家としても有名だったダグー夫人の影響から貪欲に文学知識を吸収した成果は、曲の題名だけでなく作品自体にも反映されていると感じます。

また、北村さんがプレ・トークの時にヘルマン・ヘッセの「郷愁(ペーター・カーメンチント)」を読むことを薦められていたので読んでおきましたが、確かにその作品中で描かれたスイスの自然描写が音楽と重なる瞬間がありました。特に第6曲「エグローグ(牧歌)」~第7曲「郷愁」~第8曲「ジュネーヴの鐘-夜想曲」(以下、曲名の標題は今回会場で配布されたプログラムに準じた名称で表記します)においてその風景と空気が伝わってきました。

休憩後の第2年「イタリア」はリストが再びパリに戻り、ライヴァルとなっていたタールベルク(1812~1871)と「鍵盤上の決闘」いわれた演奏試合を1837年に行い―この結果は「タールベルクは世界一の、リストは唯一のピアニスト」ということとなり、両者は和解したそうですが・・・を経て、自身を正に唯一のヴィルトゥオーゾ・ピアニストの自我・自覚をした頃にイタリアへ演奏会に出掛けた際に書かれた作品です(既にダグー伯爵夫人との交際は別離へと向かっていました)

そういった背景を知りながらきくと、「ピアニスト・リスト」自身を意識しながら書かれているように思います。

「スイス」よりも超絶技巧のみならず表現力も要求され、第1年「スイス」より変化・成長が当然あり「見(観)られる」こと「魅せられる」ことが先行している作品集ということがうかがわれます。

そのことを事前のプレトークまで開催した北村さんが、ふたつの曲集を一緒に弾く意味があること示してくれたのがこのリサイタルといえます。青年リストの成長の記録として―彼は後年までこの作品集に繰り返し改訂を加えたそうです(もとよりリストは改訂癖がある作曲家のひとりですが・・・)そこにはこの作品集に忘れることのできない思い出やアイデンティティへと遡ることでもあったのでは?とも示唆してくれました。

北村さんは第1年「イタリア」をメリハリがあり、彫の深い弾きぶりできかせてくれました。

第1曲「婚礼」のAndante quietoでは宗教的コラールのような崇高さ。

第3曲「サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ」の明るく活発なリズムはリストの時代よりももっと昔、ルネサンス期の音楽のようにきこえてきます。これは北村さんが古楽器演奏への造詣がふかいこととも影響しているのではないでしょうか?他にもスカルラッティソナタのような粒立ちの良いクリアな響き感じる楽曲もありました。

第7曲「ダンテを読んで・ソナタ風幻想曲」は曲集の中で最も長大で、構成もガッチリしており、マラソンの最後で傾斜のきつい坂道を走るような―弾き手にとっては最難関ともいえる曲です。

冒頭の地獄落ちの表現と言われる低音への下降音型から25小節からのゾワゾワした不安感、Presto agitato assai になってからの恐怖や悪魔か魔王の出現を感じるような和音、Allegro moderatoでは「狂」といった空気が漂いました。

そして、そこかしこにベートーヴェンの音楽からインスパイアされたと思わしき楽想がきかれます。

例えば、Presto agitato assaiにおける「♫ ♫」の和音からは「エロイカ・シンフォニー」のフィナーレの冒頭を連想しました。

そして、曲の終わりAllegro vivaceになってからの打鍵の迫力、ここで「超絶技巧のリスト」面目躍如ともいえる弾きぶりでヴォルテージが上りました。そしてAndateとなり、FFFからのトレモロによるコーダ。

ホール備え付けのピアノで弾かれていましたが、ホール全体に艶やかな余韻が響きました!

リストの音楽はもっぱら超絶技巧が音楽の前面に出てきて、同じピアノ作品を多く書いたシューマンショパンよりも「音楽の質」としては落ちると思っていましたが、北村さんの演奏をきいて内相的で静かな美しさも持った音楽であったことを発見できました。また、楽譜を見ただけでは複雑すぎてどうやって弾くのだろう?と思っていた運指も理解できました。

音楽をきいてこういった発見や気づきの体験ができるたことは、素晴らしい演奏家との出会いがあってこそであります。

北村朋樹さんには是非、再び松本でリスト周辺作曲家との関連作も含めた、第3年と第2年の補遺「ヴェネツィアナポリ」のプログラムを弾いていただきたいです。できれば第1年「スイス」のプロトタイプでレアな作品集「旅人のアルバム」もお願いをしたいです。

Selct Classic(13)~J.S.バッハ:半音階幻想曲BWV.903

この半音階幻想曲とフーガ ニ短調 BWV.903は1,100近くある作品のうち自筆譜が存在せず、正確な作曲年代も判明していません。

一応、1717年頃のワイマール時代もしくはケーテン時代(1717年~1723年)に作曲され、1730年頃に改訂が加えられたということになっています。

この曲にはいかにもバッハらしいガッチリとした構築力で真面目な姿をした音楽と、後のヴィルトゥオーゾ的な音楽の先駆けみたいなものと共に、力強い意志も感じるところに魅力があると思います。

作品は「幻想曲」と「フーガ」のふたつの部分から成ります。

「幻想曲」の部分は既に後世の曲を知ってしまっているからかもしれませんが、疾風怒濤期といわれる時代のバッハ・ジュニア(特にフリーデマンとカール・フィリップ)やハイドン、もっと新しい時代ではベートーヴェンのピアノ・ソナタなどにも影響を与えているように思います。

「フーガ」はバッハの代名詞、キッチリと構築された音が織り成す高い次元の音楽が形成されていきます。曲後半になるとききてに一段と集中力を要求する空気になります。

そして、この曲からは、雪が少ない地方に住んでいる方は実感しにくいと思いますが、冬の風の強い日に遮蔽物の無い平地を、ゴーゴーと音をたてながら巻き上げた雪がこちらに向かってくる風景が重なり、この寒さがいちばん厳しい時期にフト思い出す曲です。

【Disc】

弾き応え&きき応えある曲なので昔から多くの名手が手掛けており、ランドフスカの初期古楽器演奏家、フィッシャー、ケンプ、それからブレンデルやシフなど、古楽器系ではヴァルヒャにはじまりレオンハルトピノック、シュタイアーなどの録音があります。

意外にもグールドの録音は耳にも目にした事がありません。

私が最初にきいたのはカール・リヒターです。オリジナル楽器愛好家からはとかく評判の悪いヴァルヒャと同様にモダン・チェンバロによるものですが、かき鳴らされるが如く弾かれる音に体と脳が刺激される緊迫感がイイです。

もうひとつおすすめが、注目すべき若手の優秀なピアニストが沢山最近出てきていますが、そのおひとり亀井聖矢さん。

是非YouTubeの動画を観てください。

ピリオド奏法も学習(意識)されている事を感じる、ピアノによる現代的な表現方法の演奏をきくと中途半端にチェンバロで弾いた演奏よりも発見があります。

他にも皆様のおススメ演奏があればコメント等をお願いいたします。