今回は音楽を「聞く」と「聴く」の違いについて改めて考えつつ、音楽との付き合い方について書いてみたいと思います。
音楽を「きく」とき、私たちはふつう「聞く」か「聴く」のどちらかの漢字を思い浮かべます。この二つの字は、同じ「きく」という音を持ちながら、実はまったく違う姿勢を表しています。
「聞く」は、音が自然に耳に入ってくることです。通りすがりの車の音、遠くから聞こえる話し声、店内で流れているBGMのように、こちらが特に意識しなくても届く音を受け止める行為です。
一方、「聴く」は、意識して耳を傾けることです。音楽を味わうとき、講義で集中するときなど、注意深く耳を傾ける場合でしょう。その「聴く」の漢字を分解すると「耳」に「十」「目」「心」が組み合わさっています。耳だけでなく、目を向け、心を開き、全身で音に向き合うイメージが込められています。
音楽の世界では、この違いが特に大切になります。ただ耳に入るだけの「聞く」では、音は通り過ぎていきます。でも「聴く」ときは、メロディの揺らぎ、演奏者の息づかい、沈黙の間さえも感じ取ろうとします。日本の伝統文化では、このような「心を込めてきく」姿勢も長く大切にされてきました。茶の湯で湯の沸く音を味わうように、能や邦楽で「間」をきくように、音をただの情報ではなく、心に響くものとして受け止める習慣があるのです。
芸術としての音楽は、こうした「聴く」行為があって初めて成り立ちます。作曲家や演奏家が込めた想いを、ききてが丁寧にききとる。その双方向の交感のなかで本当の音楽鑑賞になります。
しかし、実際の「きく」は、もっと流動的で、外的要因にも影響されます。最初は何気なく耳に入ってきた曲が、いつの間にか心に深く染み入ることがある。逆に、一生懸命に聴こうとしても、日常の雑多なことを思い出してただの音として通り過ぎることもあります。演奏会においては周囲の人の動きや雑音に気を散らされるケースが多数あります(鞄につけたキーホルダーや鈴などのノイズ、プログラムのページをめくる音などなど)
今回、このようなことを考えるようになったのは、音楽評論家・黒田恭一さん(1938年~2009年)の著作『はじめてのクラシック』(講談社現代新書・1987年初版。現在は改版で再発売されていると思います)を、何度目かの再読をしたからです。その最後の第9章「『聞く』か『聴く』か、または、音楽の微妙さについて」を読んでから30年以上の歳月が経ちますが、今もその影響を受けています。


この著作はとても示唆に富んでおり、ビギナーはもちろん、音楽をきき込んでから再読すると、「わかった気になってきいている」クラシック音楽への接し方を改めて見直す機会にもなります。彼の遺したオペラの著作とともに、代表的なものと思います。
その第9章では、1951年に来日したヴァイオリニスト、ユーディ・メニューイン(1916年~1999年)の演奏会の思い出とともに、音楽を「くわしくききとろう」とした中学生の黒田恭一少年の姿が語られます。早稲田大学教育学部を卒業された経歴に基づく社会的な視点も交えながら、音楽を「聞く」か「聴く」かについて書かれています。これは、音楽が当時より身近になり、好きな曲を好きなときにすぐにきける現在にも通じるものを感じます。
第9章の最後を引用(抜粋)させていただくと、
『ぼくは、音楽を「聴き」たい、と思う。しかし、いつでも、音楽を、「聴く」ことができているであろうか、と思う不安もある。(略)音楽を「聴き」たいという願いをこめて、「きいた」と書く。
いささかのためらいもなく、「聴いた」と書けるときに、ぼくも一人前のききてになっているのであろうが、そのような時がいつくるのか、見当もつかない。』
この著作を読んで以来、自身もそうありたいと心がけるとともに、音楽は正しいきき方を競うものではなく、一人ひとりが自分の耳と心で出会うものだと考えています。だからあえて「きく」とひらがなで記します。そこには、音楽を押しつけがましく分類せず、静かに、そして誠実に音楽に向き合いたいという気持ちがあります。
これからも音楽について文章化するときは、「きいた」と書いていきたいと思います。
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