音楽枕草子

クラッシク音楽や読書から趣味などの身辺雑記も含め、感想として綴ったblogです。

演奏会~インバル/都響 マーラー交響曲第10番(クック版)

エリアフ・インバル氏と東京都交響楽団によるマーラー演奏。現在このコンビで感銘の深い音楽がきけないことはないでしょう。当然期待に違わないコンサート体験をさせていただきました!



【プログラム】

都響スペシャ

マーラー 交響曲第10番嬰へ長調(デリック・クック補筆版)

指揮:エリアフ・インバル 東京都交響楽団

2024年2月23日(金曜日) 開演 14:00 東京芸術劇場

 

2014年3月に第9番をきき、同年の7月に今回と同じ第10番「クック版」をきき、2017年7月には交響詩「葬礼」(交響曲第2番第1楽章のプロトタイプ)と「大地の歌」をききました。どれもが忘れられない経験となり、幸運にも人生において再び第10番をきけるとは思いもしませんでした。

出発時は長野県松本市も前日からの降雪で、無事に高速バスが運行するか心配していましたが、定時よりも若干早く新宿バスタに到着しました(演奏会チケットは発売日からあまり経過せずに購入していましたが、バスのチケットを取るのが直前となり、3連休初日であったため予定していた時間より遅い便のプレミアシートとかいう高い席ひとつしか空きがなかったので渋々の購入となり、心配と失敗が重なりましたが、それも演奏をきいて全てご破算になりました!)

 

高齢とは思えない歩みで指揮台にインバル氏が登壇、会場に緊張と高揚の入り混じったライヴでしか味わえない空気感に快い感覚を覚えました。

第1楽章冒頭はヴィオラ群の合奏による非常に難しそうな提示部、そのヴィオラ特任首席奏者の店村眞積さんが退任されるとのこと。本日はそのラスト・ステージ。ヴィオラ奏者たちにも様々な思いが込められての演奏でしょう。こちらも呼吸することすらためらいながら緊張してききました。そういった聴衆の方は多かったようで、空気も張りつめたものでした。

*店村さんはもっぱらNHK交響楽団の奏者というイメージで、N響アワーなどのTVで昔からお見かけしており、オーケストラのヴィオラ奏者としてはお顔馴染みの方です。

さて、そのヴィオラの提示部ですが、やや冷たさがあり、ピンと張りつめたもので、古今のシンフォニーの中でも結構珍しい編成による開始ではないでしょうか?そこに虚無の彼方から他の楽器が加わってきます。その思わず息をのむ絶妙なアンサンブル、そこに表現力が伴っていて、嘆き、憧れ、ため息のような息遣いがそのままきき手の耳に沁みこんできました。

第2楽章から第3楽章は動きのある音楽が続き、まるであの世とこの世の中間で彷徨っているかのようですが、管楽器の苦渋に満ちた笑い声や皮相的な表現、グロテスクなまでの踊りが巨大の音の塊のようになって会場に鳴り響いていました。

終楽章は交響曲第9番で「死」を描き、この第10番では「死後」の世界からの言霊のようで、音楽が肯定的に感じます。大太鼓の衝撃的な打撃から審判の日を思わせるチューバの吹奏、フルートによって導き出される天上からの使者の歌、そこから第2楽章から第3楽章できいたグロテスクな踊りを思わせる音楽が回帰して死の迎えが来たように断末魔の叫びのような音楽ーここでの各奏者の妙技!そこから静かさが訪れが生と死の境目を表しているようなー

その先できこえてくる音楽からは、東洋的な表現をするなら、彼岸に行ったマーラーがアルマに向かい、静かに微笑みかけながら見守っているような印象を受けます。それは浮遊感―地に足が着いていないような感覚からききことができます。

コーダにおいて弦楽器の弓がゆっくりと動き、離されていくと共に音が会場全体に解き放たれていく余韻―これは第9番の終楽章や「大地の歌」の「告別」にも通じる音楽の充実感がありました。それは第一級の指揮者とオーケストラにより成せる響きであります。そして曲が終わった後の会場に包まれた静謐な空気―熱気はありながらも―そこに湧いてくるような拍手。こういった環境で音楽をきける幸せを感じました(熱狂的なブラボー・マンも居なかったのでヨカッタ)

*オーケスラメンバー、特に弦楽器奏者(ヴィオラ奏者)の皆さんはこの時を少しだけでも永くしたいような、名残惜しさもあるようなボウイング。この余韻も素晴らしかったです。

エストロに捧げられた拍手のみならず、オーケストラ奏者への拍手、そして退団される店村さんのセレモニーにもなった舞台を含め、会場が一体となった東京芸術劇場でした。こういった経験は地方都市のホールではとてもできないことだったので、良い経験となりました。

インバル氏はこの作品を結構速いテンポで―個人的な聴取感覚ではありますが、10年前にきいたときより第1楽章が終わったかと思うとあっという間に終楽章に到達した気がして、より速くなっているのでは?と思いました。その分、演奏の技術も含めた濃縮度は今回の方が高くなっています!!それにこちらも10年前の実演体験以降、その時のライヴ録音等を含め他の演奏を何回かきいたことで、聴取に対する意識の変化も当然あると思いますが―

それもあってか、明晰で細部まで、またフレーズのひとつひとつまで光が当てられるため、どうしても補筆作品故の足りなさ・欠陥が露わになってしまう瞬間を感じました―これはやり方は違ってもチェビリダッケがブルックナーを始めとした作品を晩年になるに従い顕微鏡で観察するかのように、一音一音、フレーズ毎を徹底して表現の限りを尽くそうとしたが為に、その名演として名高いブルックナーでは作品がブツブツと分裂してきこえ(裂け目が晒され)、他の作曲家の場合、きき流していた作品の弱さ・欠点・内容の無さを逆にはっきりときかせてしまったりとしたように、インバル氏を始めとした往年の指揮者達との演奏実績を残し、一流の技量を持った都響であっても第2楽章以降の完成度・感銘度で音楽の究極の到達点に物足りなさを残していることも知ることになりました。

1936年生れなので今年で88歳、日本風にお祝いをするなら「米寿」。指揮姿はもちろん、10年前にきいたときよりも第3楽章~第4楽章における複雑なリズムも難なく振っており元気なご様子です。そして先にも書いたようにテンポ感覚が衰えていない!これから第3次のマーラー・チクルスを年1回ペースで進めていく長い道のりが始動するそうです。

ベームカラヤン、それにバーンスタインなどは年齢を重ねるごとにテンポが遅く、重くなっていきましたが(それにより新しく生まれた演奏もありましたが)、それとは逆の方向に向かっているインバル氏、もうひとりの長老指揮者ブロムシュテット翁(怪我からの復帰をお祈りしております)と共に今後の活動を期待しております。