今週はアーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による未発表放送録音集の完聴記シリーズVol.6(CD11)の投稿となります。
曲目・演奏家・録音データは以下の通りです。
CD11
・シューマン:「マンフレッド」序曲 Op.115
録音:2004年5月2日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
録音:2004年11月28日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
オール・シューマンのディスク。交響曲はヨーロッパ室内管弦楽団と90年代半ばに全集のライヴ録音を残しています。
「マンフレッド」序曲は唯一の録音です。対向配置による弦楽器の掛け合いが活きており、中間部でカッコいいメロディーが出てきますが、くっきりと示してくれます。
この作品のように直接的に標題音楽ではないものの、暗示するようなタイトルが付いた音楽をきき手に理解させる表現力はさすがに上手いです。
次は同日の演奏会から交響曲第1番「春」。音のぶつかり合いや音のズレをそのスコアのまま音にしているようにきこえる演奏です。例えば第1楽章の第1楽章提示部のニュアンスは独特です。
巷間、シューマンのオーケストレーションは下手という評価が定着しており、一般的な指揮者は全体の響きを重視し、バランスを整え小さく鳴らす、又は控えめに弾かせる(吹かせる)など、いかにその不具合を感じさせないように隠し、整理して演奏することがテクニックとされますが、アーノンクールさんはテンポの伸び縮みもフレージング自在に操ります。そしてパワーとたくましさがきこえてきます。
第2楽章も複雑に主要テーマが派生して楽章を構成していくことを教えてくれます。
第3楽章、アクセントと効かせるメリハリのある表現、テンポ変化の幅の大きさ、強弱の付け方にも個性を感じる演奏です。
第4楽章はやはり対向配置による演奏は重要な要素と感じます。第1主題の提示から弦楽器の掛け合いと、各テーマやモチーフが顔を出すのもきき取ることができます。
コーダの熱気はライヴという状況もあるのでしょう、気迫が感じられます。
交響曲第3番「ライン」
第1楽章のたくましさ―シューマンの「エロイカ」的シンフォニーと言われることもありますが、ここではそれにプラスαで陰影もきこえます。重奏される弦楽器と管楽器、それによる濁りというか影、曇り模様の空のような空気も感じることがあります。また、フト出てくる管楽器のソロには侘しさがあります。
6分くらいでホルンの吹奏と共にオーケストラのユニゾンで弾かれるところは「エロイカ」を意識させます。演奏もそれを意図していると思います。コーダでも同様なことを感じます。
第2楽章は民族舞曲風で、ライン河の畔で行われている集落の祭りの風景描写、のどかさを感じる音楽というイメージを持っていましたが、アーノンクールさんはもっと深掘りしていて、例えば後半部にある寂しさ―これは祭りのあとの静けさみたいなものまで感じさせます。はて?この描写はシューマンの夢想の中での出来事ではないだろうか。と思います。
第3楽章、このシンフォニーで一番中抜きしてもいいのでは?と思うくらい印象に残らない楽章。それ故、「春」と共に標題があるものの、イマイチ個人的には名作・傑作とは言えない作品です。構成力なら第4番となるでしょうし、シューマンらしさなら第2番となります。インテルメッツォとしてきけばいいのでしょうが・・・今回もその印象に大きな変化はありませんでした。
第4楽章ここで初めて出番となるトロンボーンが吹奏され、多声的なモチーフが重なり合い、まさに「壮麗」な響きがきこえてきます。金管のファンファーレや弦楽器は葬送音楽のような―ルネサンスや初期バロックの古い時代の音楽へのリスペクトにも思えます。
第5楽章やっぱり音の重複、突出、偏執的な反復、和音がダイレクトに耳に入ってきます。この音楽は祝典的といった言葉で解説されますが、私にはそのようにきこえてきません。第2楽章と同様にシューマンの頭の中で起きている幻影の祝典をきかされているような現実味の無い音楽にきこえます。これは楽章自体が大きな展開を構築していくことも無く、約6分ほどで終わってしまうので「夢幻の如くなり」の言葉が浮かんできます。
ブルックナーほどとはいいませんが、もう少しこねくり回した展開力が欲しいと思います―まあ、これがシューマンのオーケストラ楽曲の手法の限界でもあるのでしょう。しかし、これもまたシューマンの持ち味としておきましょう。
今回アーノンクールさんの演奏をきいてもこの交響曲への好みに変化はありませんでした。
あと、この完聴記も残すところ4枚となりました。今後もお付き合いいただければ幸いです。