本日はアーカイブにお付き合い下さい。
9年前の2014年、ジュリーニ生誕100年に書いた投稿の編集版です。
最近読んだ本の中で印象に残っているのは、マルクス・アウレリウスの「自省録」です(神谷美恵子訳 岩波文庫版)
私の愛読書のひとつ、塩野七生さんの長編「ローマ人の物語」を読み、ローマ皇帝の「五賢帝」のひとりで「哲学者皇帝」といわれたマルクス・アウレリウス(121~180)が「自省録」というものを書き残しているということを知り、以前から興味があったのですが、やっと読む機会を得ました。
(余談ですが、一般に五賢帝のスキルは優秀だったというイメージになっていますが―だからこそこういった名前で知られているのですが―塩野さんはそれに疑問を投げかけていて、既にローマ帝国の崩壊は進んでいたにも関わらず、それを止められなかった、分かってはいたけれども、止めることしなかった。という少し辛口な点をつけていますが、その解釈にとても納得しました)
「自省録」の内容は出版や人に読ませることが意図ではなく―原題は「自分自身のために」とあるそうです―彼が政務の合間、ローマから遠く離れた属州や異民族との戦いのため、辺境の地に赴いた際など日々折々に散文形式、メモみたいにして考えたこと、思ったことがギリシア語で書き綴られたものです。それが現在読めるようになっているのは、写本を基に後世の人が全12巻に編纂したものです。
物語ではないので、全12巻の内には繰り返しや同じ趣旨のことが出てきたりして「しつこいな」と思った箇所もありますが、それだけ彼が重視していたと考えて、ビジネスや家庭・対人関係に置き換えてみると、納得する部分もあり、多少でも理解できたような気がします。
その「自省録」を読み、カルロ・マリア・ジュリーニが1990年代にウィーン・フィルと録音した、ブラームスの交響曲全集を思い浮かべました。
ジュリーニは1914年5月9日生まれ、ちょうど今年で生誕100年になるイタリア出身の指揮者です。1950年~60年代はオペラを中心に活動し、颯爽と迫力に満ちた演奏をしていましたが、しだいに劇場の活動からは距離をおくようになって、各地のオーケストラの音楽監督や客演を経て、1980年代後半~90年代にかけて、その芸風は変化してテンポもゆったりと、風格をもった指揮をするようになりました。
ブラームスの交響曲全集は、そういったジュリーニ晩年の記録のひとつだと思います。
「自省録」からは哲学に基づき、自分の生き方を振り返り行動を律し、思考することを求め、孤独になりながらも人間クサイ心の叫び、みたいなものが読み取れます。そしてこの演奏にも、そのようなことがことが共通しているのでは?と思います。
ゆったりとしたテンポで美しく歌い上げて、まるで人生を振り返りっているように、深く自身の心の中から感じ取ったブラームスの音楽を、きき手に提示している―マルクス・アウレリウス、ジュリーニ両者とも「孤高」といったイメージがありますが、ちょっと貴族的な冷たさというか、冷静さと気品を持って―他者からどう見られているか(どうきかれるか)ということも意識しつつ―といった演奏に感じます。
「自省録」のあちこちを時々ペラペラ拾い読みするように、きき返すことがあります。特に第3番の第2・第3楽章の終止部直前で音楽が静止するようにして、ゆっくりと消えていくところは他ではきけないものです。この交響曲自体、全4楽章がピアノ、ピアニッシモで静かに終止しますが、その特色を十分に堪能できます。そして全4曲とも弦・管が独奏的に扱われているところで、それを支える他の楽器との調和も特徴的です。オーケストラがウィーン・フィルということも当然影響していることでしょう。
*この交響曲第3番は、ブラームスのプラトニックな面が楽曲に反映されている。という研究・解釈もありますが、それは又の機会にしたいと思います。
10年前だったら 私はこういった印象は受けなかったと思います。その頃ならきっと、カラヤンだアバドだ、ヴァントのブラームスが断然イイといっていたでしょう―ジュリーニ?「ただ遅いだけの演奏家」と、素通りしてしまっていたことでしょう(といってもジュリーニの演奏をそれほどきいているわけではありません。他にも良い演奏があれば教えてください)
年齢を重ねることにより、音楽のきき方が変わったということを、改めて気づくことができた経験に感謝します。