今週はアーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による未発表放送録音集の完聴記シリーズVol.3(CD5・6)の投稿となります。
曲目等のデータは以下の通りです。
CD5
録音:1991年1月27日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD6
・モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
録音:1991年1月27日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 K.415/387b
ピアノ:マルコム・フレイジャー
録音:1981年9月18日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
モーツァルト没後200年の誕生日に行われたコンサート・ライヴ。同年の命日にヨーロッパ室内管弦楽団を指揮したライヴ録音もディスク化されており、そのきき比べも興味あります。また、このオーケストラとは80年代にスタジオ録音も残しており、その演奏もリピート全て実施の一曲一曲がベートーヴェンへ直結する巨大なシンフォニーとしての表現でした。
その年は音楽界もモーツァルト・フィーバーに沸いており、アーノンクール氏のライヴなど沢山のモーツァルトがTV/ラジオで放送されており、楽しみにきいていた事を思い出しました。
今までこの3曲の交響曲の解説ではウィーンの聴衆がモーツァルトの音楽性を理解できず離れ生活がひっ迫していく中、演奏するあてもなく自らの芸術の道を示すために書かれた。などと半ばモーツァルト神格化エピソードと共に語られていましたが、現在では新資料発見等により演奏されたことは間違いないそうです(ただし、その作曲経緯についてはまだまだ不明な点も多く、新発見の資料でも出てこないと解らないそうですが・・・)
氏は晩年にもウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとモーツァルトのこの三大交響曲を再録音しており、この作品の解釈として「器楽によるオラトリオ」という仮説を提唱しています。それは3曲の交響曲が連続し、関連を持った作品として作曲された「3部作」であるという事です。
その説をここで書いていたら長文になってしまいますので割愛させていただきますが、面白い説です(改めて紹介する機会があれば投稿したいと思います)
*ディスク付属のアーノンクールさん自身による解説、もしくはレコード芸術(2019年12月号)の特集記事内で評論家の矢澤孝樹さんによる簡潔で分かりやすい文章でも知ることができます。
まずは交響曲第39番から。
序奏から終楽章に向かって一本の矢が貫いていくような推進力があります。そして全曲に軍楽調の響きの印象を受けます(このシンフォニー自体にそういった響きの連想をさせる音楽ではあります)
全体として筋骨隆々とした逞しく、第41番の「ジュピター」に対する「プロメテウス」を思わせる存在感。ベートーヴェンの交響曲第8番に通じるものを感じました。
第2楽章では低弦楽器が当時としては珍しく、チェロとコントラバスに声部が分れますが、優秀なオーケストラの低音部の響きがその充実ぶりを感じさせくれます。この楽章は優美な面も持っていますが、当然そんなヤワな音楽としてはきかせません。
もちろん、全てのリピートを実施していますが、弛緩せず集中力を終楽章まで切らせません。
第40番はクラリネットの入った第2稿で演奏しています。
ここでも美に溺れないスタイルで、低音の1音1音・フレーズひとつに意味を持たせて呈示してくるので、その度にきき手には新しい発見の気づきがあります。リピートにおけるニュアンスやバランスの変化でも同様です。
下降音の表現も印象的であり、これも彼がこの交響曲を後年提唱した仮説の中で「深い淵からの転落」的なイメージで解釈していたことが分ります。
第41番「ジュピター」においては、まずトランペットの吹奏が軍隊風ファンファーレを連想します。第39番のフィナーレでも感じましたが、やっぱりここでも既に例の仮説の芽があったことを感じます。
印象に残ったところでは管楽器の扱い。第2楽章の67小節での木管の強調、第3楽章ではホルンがその発祥である狩猟の角笛に先祖帰りしたかのような響きをきかせてくれます。
終楽章は速いテンポと勢い。これはライヴという事もあるのでしょう。噛みつくようなアクセントと共にインパクト抜群です(同年12月のヨーロッパ室内管弦楽団とのライヴでも同様な表現です)
385小節から4つのテーマが同時進行するところでは、音と音のぶつかり合いからコーダへ突入のすざましさ!これは音楽というより闘争であると思いました。
当時どんなシンフォニーよりも前衛的で革新的な音楽として響いたことでしょう!ハイドンなど同時代の音楽と比べても遥かに時代を超えています(この3曲の交響曲全てにいえることですが)かといって古典的な調和や響きの枠を逸脱していないからこそ、これだけ愛される作品なのでしょう。
この演奏から感じる印象的なことは、この音楽の中にベートーヴェンの「エロイカ」の響きとの共通性をきき取れることです。
CD6の最後はピアノ協奏曲第13番。
ウィーンで活動を始めた頃に自作自演用としてまとめて書かれた協奏曲のひとつ。この次の14番と共に個人的に第20番台の協奏曲をきく集中力が無いとき、フト思いたちモーツァルトの音楽をききたい時は第10番台の協奏曲を手に取るときが多いです。
ソリストはマルコム・フレイジャーさん。勉強不足で詳細な経歴を存じないピアニストです。しかし、エレガンスできれいな音色です。
1981年のモダン・オーケストラを指揮し始めた頃なので、アーノンクール氏ももっと尖がっているかと思いましたが、ソリストを引き立てて大人しく!?しています。もちろん、トッティでは襲い掛かるような強圧的な響きをきかせます。
弦楽器のデリケートな響きはコンセルトヘボウだからこその魅力です。そこにピアノが入ってきて合奏する時の美しさ!
(この協奏曲はオーストリア皇帝ヨーゼフ二世の臨席の演奏時に合わせ、トランペットとティンパニを後から追加した版が一般的に演奏されますが、ここでもその版を採用しています)
この協奏曲の特徴は終楽章です。快活なフィナーレかと思っていると、急に短調になりピアノの哀しみを湛えたようにパッと変化します。すると再び冒頭のメロディーが回帰して展開していきます。このテーマはもう一度再現されます。終止もそっと静かに終わるのも印象的です。
アーノンクール氏はどのような理由なのか、モーツァルトのピアノ協奏曲の演奏も録音も僅かしか残しておらず(理由を知っている方がいらっしゃればご教示下さい)このような新レパートリーは貴重です。
今週は完聴記の第3回目でした。お付き合いいただきありがとうございました。