今週はアーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による未発表放送録音集の完聴記シリーズVol.5(CD9・10)の投稿となります。
曲目・演奏家・録音データは以下の通りです。
CD9
・シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 D.944「グレイト」
録音:1992年11月11日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD10
・シューベルト:交響曲第7(8)番 ロ短調 D.759「未完成」
録音:1997年11月1日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
録音:1996年3月24日 アムステルダム・コンセルトヘボウ
同時期に同じコンビでTELDECにシューベルトの交響曲全集を録音しており、この「グレイト」のみはライヴレコーディングとなっていたので、同一録音or別日演奏会でしょうか?私の耳では判別はできません。音響や残響が異なるので実演と録音のマジックというか、音楽をきくうえで録音物には注意しなければいけないところです。
さて、第1楽章の木管(オーボエ)の吹くメロディーは胸が締めつけられるような寂しさと哀愁、孤独が伝わってきます。そしてフレージングの流れも人間の呼吸を感じます。そこに全体を覆う影、たくましさもありますが、やっぱりそこには暗さがあります―これは第7番「未完成」交響曲にも通じるイメージを抱きます。
第2楽章、ここでも木管のメロディー・ラインが強調という程ではないですが、印象的に取り扱われており、当時としては注目すべき規模と音楽性を持った作品であったことを教えてくれます。
大胆ともいえる弦・木管楽器の扱い―これは全曲を通じていえる事でありますが、ベートーヴェンの交響曲第9番と時期を同じくして、それも30歳そこそこの作曲家が(当時は無名の)書いてしまった事に驚きです。
第3楽章、起承転結でいう「転」であるので一番軽く短めという扱いであるが、この演奏では約14分!(第1楽章と同等・第2楽章より長い演奏時間!)スケルツォ楽章も存在感を増してくるのはベートーヴェンを経てシューベルトが引き継いだことになります。それがブルックナー、マーラーへとつながっていくことになります。
第4楽章フィナーレ。この楽章は前楽章からの空気がそのまま流れ込んできたような―この演奏では第3楽章からほとんど切れ目なしに突入してきます。繰り返しと反復、舞曲風のリズムが核となり発展、それが波状攻撃のように襲ってきます。フーガ的な展開もきかせ、音楽が「てんこ盛り」状態になり、キャパオーバーみたいな熱狂が増幅されていきます。
ワーグナーがベートーヴェンの交響曲第7番を「舞踏の神格化」と比喩したならば、この「グレイト」は「狂への舞踏」といえます。これはマーラーの交響曲第7番の終楽章にも感じる「熱狂」と「死」、目の前に迫った悲劇・災難を見て見ぬふりなのか、知っているからこそなのか、踊りながら発狂しているような演奏です。
特にコーダに向かっての盛り上げ方はそれを実感します。
そして最終の和音は消えるような終わり方=デュミヌエンドしているのも特徴的な表現です。
CD10
シューベルトの「未完成」交響曲から―第1楽章の深刻さ、そして憧れ・想いが断ち切られ、苦悩して闇まで堕ちていく様が生々しく描かれます。アーノンクールさん手にかかると通俗交響曲としてきかれてきたことへの反発が感じられる演奏になっていると思います。
第2楽章では金管楽器がコラールのように吹奏されるとき、他の演奏ではきこえない和音をそっと浮かび上がらせます。再現されるときも同様で、これが地上への未練のようにきこえるのは私だけでしょうか。
66小節・96小節の展開部の変化も安らぎが訪れたかと思わせての緊張感・恐怖や悲しみが一度に訪れるような表現も印象的です。
他にも練習番号「E」ではベートーヴェンの「エロイカ」シンフォニーの第2楽章(これもいうまでもなく「葬送行進曲」と名付けられている音楽です)を連想する瞬間があります。
このようにきいてくるとアーノンクールさんは第1楽章が「死」、第2楽章が「天上の世界(死後の世界)」を描き、ふたつの楽章で完結した交響曲として解釈しているのでしょう。
また、彼はウィーン交響楽団とヨーロッパ室内管弦楽団とも複数の録音を残しているので改めてきいてみようと思います。
つぎはブラームスの交響曲第1番。ベルリン・フィルとの全集ライヴもディスク化されていますが、天下一のオーケストラのため必要とするリハーサル時間が取れなかったのでしょうか?アーノンクルール節が徹底されておらず、アーノンクールさんとしては珍しく!?どことなく「借りてきた猫状態」の印象を受けました。
でも数多あるブラームスの交響曲全集では異色のモノのひとつといえます。できれば2000年代にベルリン・フィルとリベンジマッチか、このアムステルダム・コンセルトヘボウとの再録音を残してほしかった!
一般に第1楽章の開始はティンパニがガンガンと叩かれ、弦が唸るような響きで弾くような、ベートーヴェンの交響曲の呪縛?怨霊?から逃れる―この作品のエピソードで必ずいわれるベートーヴェンの交響曲を意識しながらやっと書き上げた第1番交響曲―それを表現したような演奏が多いですが、この演奏ではその逆。
全く力コブが入っていないスマートな開始です。そのような開始に「何じゃこりゃ??」となる方もいらっしゃるでしょうが、別の面からきけばむしろシューベルトやシューマンとの近親性を感じるでしょう。
厚ぼったくてうっとおしく感じる響きから解放され、各楽章をクリアに響かせ、腰の重いリズムにせず、スコアに書かれているモチーフやアクセントを的確に演奏するとこのようにきこえるのか!と驚きました。
いわば今までの演奏の伝統があまりにもベートーヴェンを意識していた説に因りすぎていたと思わせます。
スコアを見ながらきくとここにアクセントがあったのか!とか、この楽器だけピアノになっている、だからだんだん弱くなっているようにきこえるのか!などの発見もありました。
アーノンクールさんの創る演奏は人工的・ギクシャクしているという意見もありますが、それは一面だけで、このブラームスにおいても人間が生きて動き、呼吸する感じとテンポ・リズム共に合致しているようにきこえます。
終楽章においても、汗かきミュージックのような熱気と勢いだけで片づけるような演奏でなく、全体の構成を見渡しながら終止部に向かっていくのもいいです。
とかくベートーヴェンの影響云々といわれるこの交響曲ですが、むしろブラームスの憧情とシューマンの詩情がミックスされたシンフォニーだと気付かせてくれる演奏です。
以上、今週は完聴記シリーズの投稿でした。
お付き合いいただきありがとうございました。