音楽枕草子

クラッシク音楽や読書から趣味などの身辺雑記も含め、感想として綴ったblogです。

2023年棚ざらえ~サヴァール再録音・モーツアルトのレクイエム

本日は2023年最後の日。今年始めたこのブログの年内最終投稿となりますので、棚ざらえ的に今年購入したディスクから印象に残ったものを―と思いましたが、今年発売されたディスクで購入したのは僅か1枚でした。

(ほとんどセール品や中古など、過去ききそびれてしまっていた、発売当時は買えなかった、などが私の購入ディスクの大半を占めてしまいますので…次々と新譜を購入する経済力もありませんので。。。)

その1枚はジョルディ・サヴァール指揮による再録音となるモーツァルトのレクイエムです。

演奏者・録音データは以下の通りです。

 ソプラノ:レイチェル・レドモンド

 メゾ・ソプラノ:マリアンヌ・ベアーテ・キーランド

 テノール:ミンジェ・レイ

 バリトン:マヌエル・ヴァルサー

 合唱:ラ・カペラ・ナシオナル・デ・カタルーニャ

 ル・コンセール・デ・ナシオン

 (コンサートマスター:マンフレート・クレーマー)

 指揮:ジョルディ・サヴァール

 録音:2022年5月11-13日 カタルーニャ自治州カルドーナ城参事会教会

 

年末―12月というと日本国民は揃って「第九・第九」と騒ぎ、ついには沢山の人を集めて「1万人の第九」とか称して「カンキ・カンキ」と騒ぎ立てます。

やっぱりクリスマスの時期ですので、J.S.バッハの「クリスマス・オラトリオ」、ヘンデルの「メサイア」が思い浮かびます。そして個人的にはモーツァルトのレクイエムもこの時期に思い出す音楽になります。

1791年12月5日に亡くなったモーツァルトが、その死の直前まで手掛けていた音楽である事、35歳という若さでこの世を去ってしまった事への追悼―これは彼の晩年について書かれた書籍や映画「アマデウス」のイメージもあると思いますが、孤独・貧困・病気による若すぎる死に対して私がこの季節に思い出すためでしょう。

しかし、その「レクイエム」ですが、ご存知の通りモーツァルトの死により未完成に終わり、彼の死後に弟子のジュスマイヤーをはじめとした他人の筆が入っていることもあり、古今のレクイエムの中でも傑作といわれながらも音楽学者の研究対象みたいな作品という側面もあり、そういった先入観があり冷静な判断で耳を傾けられない音楽でもあります。

特に「ラクリモサ」以降はどこまでがモーツァルトの真筆か?みたいな謎解きをしながらきいてしまうきき手もいると思います。

そのような余分な要素をもっている作品ではありますが、サヴァール氏は前回録音と同様に「ジュスマイヤー版」といわれる、昔からワルターベームカラヤンも採用している版による録音となります。

しかし、きこえてくる音楽は全く違うものになっています。それは使用している楽器の差だけではありません。往年の巨匠たちの演奏が厚着で芝居がかった牛歩のような動きならば=モーツァルトの死とその怨念が憑りついているような音楽を想像するような表現だったのに対し、サヴァールの演奏からは白いパリッと糊の効いたワイシャツと細身のスラックスを身に付けたスタイリッシュな姿で葬儀に参加しているような=モーツァルトの死・最後の未完成作品という縛りから解放され、「温故知新」ともいえる新しいステージに向かおうとしていた作品という解釈にきこえます。

演奏も一級ものであります。合唱団の声の美しさ!弱音での安定、透明で硬さがない混濁しない透明感のある発声!ソリスト達も同様です。そこからは「祈り」がきこえてきます。サヴァールの意図もそこにあるのでしょうか。ソリスト、合唱もオーケーストラも音楽に奉仕するように全体の「調和」があると思います。

ベートーヴェン交響曲全集の録音できかせた野人が奏でるような演奏とは逆の、穏健的で死への恐怖を煽りたて、死者を鞭打つようなものとは異なります。他にはリズミックな点、冒頭のバセットホルンによる沈痛な導入部もベームカラヤンなどはゆったり―それは葬列の人々の重い足取りを思わすようなレガートでアダージョに基づく表現ですが、スコアには弦楽器と通奏低音・オルガンにはスタッカートが付いています。

古楽器演奏家たちはそれをしっかりと理解して楽譜に基づく演奏をします。それによりキチンとしたリズムが刻まれ、より軽みが生まれます。オーケストラ全体もフットワークがよく、録音場所も含め、まさに教会できく死者への「祈り」と「救済」、「三位一体」の「調和」のレクイエムの響きを実感します。

以上、今年の新譜として購入したサヴァールモーツァルト「レクイエム」再録音について書かせていただきました。

皆様、良いお年を。