クラシック音楽のマニアといわれる方は、私など足元にも及ばず、様々な作曲家・演奏家を知って(きいて)おり、例えば誰かが「マーラーはバーンスタインに限る」と言えば「いやテンシュテットだ」「いやいやラトル」・・・延々と話が尽きません。
また、それぞれに好きな演奏家がおり、例えば指揮者ではフルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターなどのメジャーな演奏家のみならず、シューリヒト、オッテルロー、バルビローリ・・・その知識と情報量の驚くばかりです。
私はそこまで極端ではないですが、偏愛する演奏家はいます。
今年没後60年となる、ハンガリーの指揮者、フェレンツ・フリッチャイです。
没年からすると19世紀の指揮者のように思われますが、生年は1914年。48歳の若さで病死をしてしまいました。同年にはキリル・コンドラシン(1981年没)、カルロ・マリア・ジュリーニ(2005年没)、ラファエル・クーベリック(1996年没)など。それを考えるとい、かに彼の活動期間が短かったことを実感します。
なぜ私がそこまフリッチャイを偏愛するようになったのか?
まず、1990年代に「フリッチャイ・エディション」という企画で、ドイツ・グラモフォンから沢山のCDが発売されました。
当時の新譜は3,000円。学生にはそうそう買えるものではありません。毎月レコード芸術の再発売・廉価盤広告一覧を見て、何を買おうか?と考えていました。
その時、カラヤン、バーンスタインを要する、信頼の「イエロー・レーベル」=「ドイツ・グラモフォン」から当時ききたかった、モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキーの主要交響曲、ロッシーニのオペラ序曲、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」等々、そしてなによりもモーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、ベートーヴェンの「フィデリオ」が対訳付きで廉価盤の発売となることでした。
そして、その演奏しているのが、48歳で亡くなった指揮者であることも興味をひきました。自分も若かったので、フルトヴェングラーやワルター、トスカニーニといった高齢指揮者も存在した時代に活動し、その将来も約束されていたにもかかわらず、活動が終わってしまった演奏家達に、儚さや虚しさといったイメージ先行できいていました=同じ理由でピアニストのディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、指揮者のグイド・カンテルリも。
ちょうどその頃、クラシック音楽の新しいレパートリーを手当たり次第にきく事と共に、同じ曲のきき比べの楽しみも覚えるようになりましたので、カラヤンとフリッチャイのベートーヴェンはどう違うのだろう?ムラヴィンスキーとフリッチャイのチャイコフスキーではどう違うのだろう?という時期とも一致しましたが、次々とCDを購入することは当然できませんでしたので、フリッチャイの演奏を繰り返しきいたことによる「刷り込み」も大きいと思います。
そして彼の残された書簡・文章がライナーノーツに掲載されていて、その音楽論・作曲家論を読むのも楽しいCDでした。また、CDジャケットの写真がどれも飾り気のない姿のものが多く、カラヤンを代表とした、演奏とは別に指揮姿=「カッコイイ」(「カッコつけたがり」ともいうかもしれませんが・・・)のイメージとは全然違い、印象に残りました。
さて、彼のレパートリーといえば、まず母国ハンガリーのバルトークとコダーイ、そしてモーツァルトの交響曲やオペラ、ベートーヴェンの交響曲が知られています。録音としてはヘンデルから同時代の現代音楽まで、幅広いレパートリーを持っていました(グラモフォンから2期に渡り発売された、一覧表の写真を添付しておきます↓)
しかし、そのような演奏は皆様も承知かと思いますので、少し横においておいて、あくまで個人的オススメのディスクをご案内します。
第1期販売
第2期販売
(1)バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」*ドイツ語歌唱 録音:1958年
管弦楽のための協奏曲」「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」はフリッチャイの代表的な録音として知られていますが、こちらの歌劇もきき逃せません。
ストーリーが残虐で、メロディーらしいメロディーがあるわけではないので、オペラ好きには敬遠されるのかもしれませんが、いわゆる「オペラ」から連想する、絢爛豪華な舞台、歌手のアリアや合唱というものはなく、シンプルな舞台と2人の歌手(青ひげ公と新妻ユディットのみ)
オーケストラはかなり大きな編成でありながらも、大音量で圧倒するわけでなく、静かに、冷徹に切れ味鋭いナイフのような音を出します。アリアと言えるものも存在せず、2人の歌手の語りとも、歌ともつかないやり取りで進みます―前衛的な心理劇のようです。
そのオーケストラの響きが、古い録音ながらも新鮮な響きできこえます(木管楽器が乾いた音でピロピロ吹く音など特に前衛的)扉を開けると目に入る、血の滴る壁、輝く王冠に付いた血、幕切れにかけての過ちに気付きながらも、青ひげ公に従うユディット。その静粛な表現―バルトークはとても耳の良い人だったのでは?と思います。人のきこえない音でも彼にはきこえている、繊細な耳の持ち主。フリッチャイはそのことを当然ながら良くわかっている演奏です。
私のバルトークという作曲家のイメージは「夜の音楽」そして「闇」・「暗黒」を音楽にした作曲家なので、「管弦楽のための協奏曲」などは物分りのよくなった=丸くなって、聴衆により添った分り易い音楽にきこえます。
そして、オペラなので歌手。青ひげ公のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)。最初の歌唱から一気に惹きつけられます。残虐でありながらも、知性と貴族の品格が漂う歌声です。
ユディットのヘルタ・テッパー(ソプラノ)も、役柄からすると、やや分別のついた大人びた歌唱ではありますが、その落ち着いた歌唱が、ディースカウ、フリッチャイとの共演にふさわしい存在感であると思います。
録音年代も古く、語り手による前口上の省略、歌唱がハンガリー語ではないので、現在の原典主義的な演奏スタイルからすると、時代遅れといわれるかもしれませんが、その切れ味鋭く、引き締まったフリッチャイの指揮と、ディースカウの豊かな表現が、オペラ敬遠気味なー決して嫌いなわけではなく、どうしても長時間となる、オペラをきく時間がない私が集中してきける作品です。
(2)ストラヴィンスキー:オペラ=オラトリオ「エディプス王」 録音:1960年
再び劇作品の紹介です。フリッチャイは先の「青ひげ公の城」と「エディプス王」をセットで上演したこともあるそうです。両作品に共通する、「救済の無い世界」「不条理」を見事に表現してくれたことでしょう。
「エディプス王」(または「オイディプース王」)は古代ギリシャ(紀元前427年頃)のソポクレスの書いた戯曲に基づく作品で、映画化されたり、現在も舞台化されることもあります。
ストラヴィンスキーはこの題材で、オペラとしても、オラトリオとしても上演できるスタイルで作曲しました。特別な舞台装置等も必要ない(この点では「青ひげ公の城」とも共通)
語り部による前口上があり、舞台となるテーバイではエディプス王の即位以来、天災・疫病で不幸が続いていることが、民衆の合唱で歌われます。
エディプス王は不幸を救おうと、民を安心させようとしますが、逆に王自身の過去が暴かれ―父親の殺害ー母を妻とする、重罪を犯し、最後は自身の目をつぶし、追放される。
バルトークほど禁欲的でなく、オペラ的な旋律(ヴェルディ風)、独特のリズム、ラテン語を生かしてなのか、演劇的なのか、意図的のようにテキストが繰り返されます。ラテン語のせいか、男声合唱が宗教曲のようにきこえたり、時にはオルフの「カルミナ・ブラーナ」も遠くで繋がっているような―たくさんの要素がきこえてきます。
それらの音楽を、フリッチャイは舞台空間を感じさせる豊かで、広がりのある表現でありながも、緊張感・緊迫感があります(1960年の録音なのに、モノラルなのが惜しい)―彼はこの時点で相当な歌劇場での経験がありました。そして、当時作曲家も存命中で、まさに現代音楽に取り組む「マジメ」な姿が想像されます。
歌手も当時の名手ばかりで、エディプス王:エルンスト・ヘフリガー(テノール)、王妃イオカステ:ヘルタ・テッパー(ソプラノ)―みんなカール・リヒターのバッハで歌っていることもあるのか、本当に「マジメ」というか、他の歌手も含め、フリッチャイの脇目も振らない、音楽への真っ直ぐな姿勢に共感・協力して音楽を創りあげています。
お各場面に語り手が解説を述べるテキストも収録されています(各国での上演も考慮して、英語・フランス語・ドイツ語が書かれているそうです。ここではドイツ語で収録)そして、その語り手が結構重要で、ここではエルンスト・ドイッチェという方が、感情豊かに役を務めています。
それらを考えると、この演奏はラジオ放送用か何かの録音だったのではないでしょうか?
・1960年の録音でありながら、モノラル
・語り手がドイツ語ヴァージョンで収録されている
(録音を前提とした、バルトークでは語り手のテキストを省略している)
・・・あくまで推測ですが。
ディスクが横道から入ってしまいましたが、私の偏愛指揮者「フェレンツ・フリッチャイ」のディスクを機会があれば、紹介したいと思います(もう少し王道レパートリーを・・・)