今週は読んだ本に関し、別ブログに投稿したしたものに加筆・修正を加えた「アーカイブ」投稿にお付き合い下さい。
2冊のベートーヴェン関連書籍を続けて読みました。
今ではベートーヴェンを「楽聖」と呼ぶ人はほとんど存在せず、交響曲「運命」や第9「合唱」を崇めている人も少ないでしょう。2冊を読み終えて感じたのは「ベートーヴェンの音楽からご無沙汰しているなぁ~」ということです。マーラーやブルックナー、近年はピリオド演奏のモーツァルトをきいて、優美な響きだな~などとウツツをぬかしていた自分に「喝!!」とばかりに、ベートヴェンの言葉がきこえてきたようで、なんだかさんざん外で遊んでいて、家に帰るのが遅くなり、玄関先で親から叱られている子供のような心境になりました。
そこで改心?罪滅ぼし?のつもりでしばらくはベートーヴェンの音楽をききました。
そうして改めて感じたのは、やっぱりベートーヴェンは「偉大なり」ということです。
好きな作曲家は?という質問を受けることがありますが、その時の答えは「好きな作曲家」=モーツァルト、「尊敬する作曲家」=ベートーヴェンと返答しています。
個人の嗜好でいえば、モーツァルトはミューズの申し子というべき人物で、神の領域で音楽を湧き出るように作曲したにも関わらず、私生活では下ネタを言ったり、かなりふざけたところがある、好感を持つ人物ではありますが、決して「尊敬」という称号が似合う人物ではないように思います。それに対し、ベートーヴェンは一度湧き出た楽想を、徹底的に練り上げる―まるで刀匠のように、汗を流し必死の思いで作曲する、また「ハイリゲンシュタットの遺書」に書かれているように「努力家」というイメージがあり、まさに「尊敬」される人物に値すると思います。
ロマン・ロラン(1866~1944)の「ベートーヴェンの生涯」は彼に対する純真な敬愛と、尊敬を綴った賛歌として、またベートーヴェン党宣言小説として(併録されている「ハイリゲンシュタットの遺書」と「ベートーヴェンの手紙」も作品理解に役立ちます)
山根銀二(1906~1982)の『ベートーヴェンの生涯」はロマン・ロランの主義・思想に共感し、そのベートーヴェン賛歌を読みリスペクトしており、これからベートーヴェンを知ろうとする中高生への入門書として読むことができると思います。
そのようにベートーヴェンの音楽をきいたなかで改めて作品の良さを知ったのは
作曲されたのは1815年、この年は弟カールが没して、甥のカールの後見問題に関わり、精神・体力的に非常にダメージを受け、社会的にはナポレオン戦争後の「ウィーン会議」から自由が抑圧されるようになり、経済的にも厳しい時期で、創作力のどん底にありました。
そのため主だった作品といえば、このソナタと歌曲や民謡の編曲などしかありません。でも、この第28番のピアノ・ソナタからはその厳しさとは無縁で、明らかに新しい方向に進んでいることが分かります。
そのため主だった作品といえば、このソナタと歌曲や民謡の編曲などしかありません。でも、この第28番のピアノ・ソナタからはその厳しさとは無縁で、明らかに新しい方向に進んでいることが分かります。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポの第1主題は、意志の人ベートーヴェンを離れ、とても抒情的で一瞬、シューマンやシューベルトの音楽かと思うほどです。そして、第3楽章のググッと胸に迫るような序奏、トリラーの連続するところは、最後のピアノ・ソナタ第32番の終楽章へ発展したことを考えさせられ、空気が澄んだ夜に空を見上げると、星がきれいに見える時のような、宇宙の広大さや、私程度の人間でも崇高な気持ちになります。
イヴ・ナット、グルダ、シュナーベルとききましたが、ナットの柔軟を使い分けた演奏に強く魅かれました。でも、終楽章コーダにおける推進力はグルダの力強さが、ベートーヴェンがより深化を続けることを意識させます。
まだ頭の固い前時代の研究家が多かったであろう、1959年に「不滅の恋人」をアントーニア・ブレンターノという説を発表し、注目を浴びた著者のベートーヴェン研究の成果がこの一冊にコンパクトにまとめられています。
とくに時代背景や、人物相関がとても詳しく調べられており、ベートーヴェンの人間像と政治的な関わりなども勉強になりました。
とくに時代背景や、人物相関がとても詳しく調べられており、ベートーヴェンの人間像と政治的な関わりなども勉強になりました。