黄砂の籠城(上・下巻) 松岡圭祐著(講談社文庫2017年刊)

「義和団事件」(義和団の乱)、1900年中国清朝末期に起こった外国人排除・反キリスト教を掲げる組織「義和団」による民衆蜂起のことです(北京に駐在していた外国人公使館の区域(東交民巷)に対して義和団が襲撃をした)この時代は「日清戦争」(1894~1895)に「日露戦争」(1904~1905)と対外戦争を繰り返していた時期なので、歴史の授業では触れるか触れないくらいの扱いであると思います(息子の中学校の時の教科書でも同じでした)
この事件は映画化もされており「北京の55日」というタイトルで1963年にアメリカが製作しています(義和団に襲撃された諸外国が外国人公使館区域に籠城をした日数を指す)完全な勧善懲悪ものとして描かれています。これは正にアメリカ西部劇のアジア版という表現がふさわしく、欧米諸国=「騎兵隊の到着を待ちながら耐え続ける砦」VS中国人(義和団)=インディアンという構図です。
デヴィット・ニーヴン扮するイギリス公使の大英帝国然たる立ち振る舞い、義和団相手に奮戦するチャールトン・ヘストンのアメリカ海兵隊少佐に「かっこいい」と―NHK-BSだったと思いますが、初めて観た時は中学生だったので単純にそう思っていました。西太后をはじめ中国側はなんて卑怯なんだ、とか。
しかし、この映画はあくまで欧米から義和団事件を描いたものなので史実とは相当相違があります。チョイ役でしかない日本の駐在武官 柴五郎中佐(伊丹十三)が実際には諸外国11か国の前線司令官だったことも―
「イヤイヤそうじゃないよ」と書いたのかもしれないのが、この松岡圭祐さんの「黄砂の籠城」です。
主人公はその柴五郎中佐になりますが、書かれている視点は柴中佐に従っている櫻井隆一伍長を通じています。
義和団の襲撃を受け援軍も見込みのないなか、狼狽する諸外国を徐々に主導して影響力を発揮していく柴中佐、櫻井伍長もはじめは柴中佐を経歴や言動から懐疑的な目線で見ていましたが影響され、周りもそれに従っていく様子が描かれます。
当時の日本人軍人が諸外国相手に指導力を発揮したことは驚きです!
作品の内容は歴史的事実を扱いながら、そこにエンタテイメント性(こちらの比率が大きいと思いました)と少しの謎解きを加えた、以前このブログに投稿した松岡圭祐さんの著作「シャーロック・ホームズと伊藤博文」を彷彿とさせる描写を思い出しました。例えば戦闘場面の活劇風な銃撃戦(銃剣術)や刀での交戦、そして内部における関係者の不審死と情報漏えい―誰が犯人・スパイなのか?さほど重要なテーマではないのですが、ひとつの糸のように物語終盤まで読者を引きつける手法がさすがです。
作品自体の結果・結末は歴史上分かっているので、その伏線やストーリー展開が巧みになされており、約600ページを読みこなすことができました。
ただ、外国人は個人主義で自国利益優先、これは中立であるべき聖職者も同様、日本人は犠牲的精神でこの危機に相対している、という描写はあまりにも一方的に日本人を美化しすぎかな?とも思いました。見方を変えれば欧米、日本の行為は侵略者に変わりはないのです。自国に他国の軍隊が我が物顔で駐留している現状を想像してください(現在日本においても沖縄県が・・・)そして、この義和団事件の発生する30年ほど前の江戸幕府が倒れ明治政府樹立がスムーズにいかなければ、日本も同じ状況になりかねなかった―そういった背景を鑑みながら葛藤なども描いてくれればもっと深みのある「小説」になったのではないでしょうか。
作品としては上巻が良かったです。下巻になると籠城も佳境を迎え、このまま耐えることができるのか?援軍はいつくるのか?という緊張感がでてきますが、活劇風・エンタテイメント性がありすぎて特に249ページ「44」からは「できすぎ」と感じてしまうところもありました。また、作品はエピローグのように現代(2017年)から始まるのですが、その地点には戻らず終わってしまうのならあえてそのくだりを書いた意味があったのかな。とも思いました。
しかし、現代日本においても排外主義、世界に目を向ければ大きな戦争、宗教対立など100年を経ても変わっていない現状があります。こういった時代にこそ柴五郎中佐のような考え方、行動力を持つようにしなければならないという示唆になりました。
この作品とは直接関係ないのですが、私にはただ、彼の理解できない行動があります。太平洋戦争が敗戦した1945年9月に自殺を図ったことです(その傷が元で同年12月に85歳で死去)会津藩士の息子で祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃を経験していることもあるのでしょうか。それとも敗戦に対する自責の念でしょうか(しかし1930年に退役しています)何か詳細な事情でもわかれば考え方も変わるかもしれませんが、良い話ではありません。